洗足池商店街夏祭り
2011年8月28日
優雅にフラダンス。
挨拶する平澤理事長。
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2011年8月28日
優雅にフラダンス。
挨拶する平澤理事長。
2011年8月28日
雪谷太鼓と子供たちのソーラン踊りに大勢のギャラリー
2011年8月28日
テーマは、これが池上。
それも池上。
展示室では、東京で2人だけでその1人、銭湯絵師の丸山清人さんの浴場背景画が披露された。
大田区浴場組合長と記念写真。
この富士を見よ。
2011年8月27日
大田区発B級グルメの塩焼きそばの販売に力を入れる大森法人会青年部。
味の決め手は、のりとあさりと梅。
酢をさっとかけて食べるとより旨い。
プラモール梅屋敷は演歌の花道
2011年8月27日
台風11号12号の接近が気になる中、大田区内あちらこちらの商店街でさまざまなイベントが開催された。
どのイベントも大勢の親子で活気に溢れていた。
東日本復興支援の物産品の販売、盆踊り、太鼓、フラダンス、演奏会、模擬店と、大人も子供も最後の夏休みを楽しんでいた。
親子の絆。地域の絆。今再生すべき最重要課題である。
2011年8月23日
この日、福島県の内堀副知事をはじめ、県内の温泉組合の女将さん6人が自民党役員室の幹事長はじめ執行部に挨拶に見えた。
原発の風評被害で、どの温泉街も苦戦している。
東京都では9月1日から、被災地である秋田・宮城・福島の3県へ旅行する都民に対し、1泊3,000円2泊まで、5万泊分支援する。
この施策を使って、是非福島県の温泉へと、この度の都の支援に対するお礼と共に、女将さんたちがピーアールに訪れたのだ。
女将さんたちの名刺はそれぞれに魅力ある売りがある素敵なもので、私たちも各団体への呼びかけや後援会旅行も含めて応援したい。
私の日大雄弁会の後輩である清水敏男県会議員がいつもお世話になっているいわき湯本温泉の、こいと旅館の美人若女将文恵さんも一緒にみえた。
名刺に、どんな時にも笑顔を忘れずがんばります。の決意に思わずジンときた。
頑張ろう ふくしま!
2011年8月21日
雨も小止みとなり、久しぶりに30℃を割って涼しくなった夕方18時30分、地元仲池上会館で選対解散式を兼ねて区政報告会が開催された。
冒頭、挨拶に立った君島後援会長は、当選から4ヶ月たって、気持ちも少し落ちついたが、新人として堂々たる勝利。皆さんのお陰様、とお礼を述べた。
圭介議員は第2回大田区議会定例会で一般質問に立ち、教育、福祉、道路と立候補した原点の思いの丈を松原区長にぶっつけた。
地元雪谷地区に軸足を置いて、一期生のリーダーとして、大いに活躍を期待したい。
2011年8月15日
戦後66年、終戦記念日のこの日、日本会議東京都議会議員懇談会小磯明会長を中心に日本会議地方議員連盟に所属する市議会、区議会議員一同で、靖国神社を参拝した。
朝7時には30度を越す暑い日となった。
終戦の日も今日と同じようにきっと暑い暑い一日だったに違いない。
この日は、地方議員も例年になく大勢で、全員で100人を越した。
靖国神社は静寂そのもの、スピーカーを使った呼びかけは無かった。
山口権宮司を先達に、中国漁船衝突事件をUチューブで国民に知らしめ、鳩山前首相に情報のクーデター(?)と言わしめたあの一色正春元海上保安庁保安官も一緒に参拝した。
午後から行われる中央集会で講演をされるとのことだ。
正面から拝殿に登り正式参拝した。
参拝後お神酒を頂き、神社を後にした。
私の山形の叔父が先の大戦で南方、潜水艦で戦死している。
この日本会議の終戦記念日の参拝も今年で18回目を迎える。
私は一年に一度、この国と家族を守る為命を捧げられた英霊の御霊に不戦の誓いをさせていただく。
7月亡くなった父に連れられ初めて靖国を参拝したのは、小学生の時。
あの日も暑い暑い蝉時雨の15日だった。
午後から母親を誘って、娘3人も一緒に父が好きだった浅草寺にお参りに出かけた。
今改装中の浅草観光センター前からパンダバスに乗って今戸神社へ。
このバスに乗っていた大勢の若い女性が今戸神社で降りた。
この神社は縁結びのパワースポットとして昨今大変人気がある。
沖田総司終焉の地とされる。
その後、待乳山聖天本龍院に廻った。
金龍山浅草寺の枝院である。
階段を登ると山門脇に歌人戸田茂睡の歌碑があった。
哀れとは 夕超えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
母、娘たちと父の好きだった思い出の地を訪ねた終戦記念日。
日本人としての気概。国家の進路。
しっかりしろ!政治家。
自らにムチを入れた。
皆様ようこそ奥浅草へ、仲むつまじい猫が参拝者を迎えてくれる今戸神社
大勢の参拝客で賑わう浅草寺
夕食は皆で鉄板を囲んで。
浅草つる次郎の浅草焼き。娘たちが焼いてくれた。
2011年8月9日
東京国立博物館平成館で9月25日まで、空海と密教美術の世界が開催されている。
私も真言密教美術と仏教曼荼羅を見たいと思って、上野まで足を延ばした。
密教を日本にはじめて伝えたのは、弘法大師空海である。
空海は、延暦23年(804年)密教を求めて唐に渡り、2年という短期間にその奥義を極めた。
奥深い密教の教えは、絵画などを用いなければ理解出来ないと師の恵果や空海自身が言うように、密教では美術作品が重視された。
空海は草書を得意としたが、唐から帰国後さらに独自の発展を遂げ、自由奔放で豪快とも評される独特な書風を確立した。
書道ファンにも必見である。
展示された密教法具に大きなパワーを感じた。
空海は、この法具をかざし密教を極め、流布したのだろう。
京都の教王護国寺、東寺講堂には、空海の思想に基づいて大日如来を中心に21体の仏像が安置されているが、そのうち国宝である8体が展示されている。
仏教曼荼羅が出現している。
この緒像の間に身を置き、仏教曼荼羅の空間を体感出来る。
私も昨年、東寺で21体の仏像を見てきたが、より身近に体感出来る。
この夏休み、あなたも仏教曼荼羅に癒され、そのパワーに触れてみては如何ですか。
2011年8月7日
本宿、大森町、八幡、山谷、三輪町会の青少年健全育成を目的に栗田廣明実行委員長を中心に夏休みの特別企画が6日7日と2日間に渡って大森第一小学校で行われた。
子供たちは懐かしい十両編成はある特急列車の鉄道模型の運転を楽しんだ。
指導は元新幹線の車掌の鈴木さん。
子供たちは、ピーという大きな汽笛を鳴らし、一日車掌を楽しんだ。
2011年8月7日
蒲田八幡神社の祭礼もいよいよフィナーレ。
9町会の御神輿パレードを前に実行委員会員のメンバーや子供たちが一緒に蒲田東口駅前で恒例の水打ちが行われた。
アスファルトの道路は49℃あったが水打ちで37℃まで下がった。
蒲田本町2 丁目町会の山車には、桃太郎が載せられ珍しい
2011年8月6日
恒例の納涼会が大森駅前の倶楽部で行われ、西野前区長をはじめ大勢の会員が参加した。
あちこちのテーブルでは、健康談義、ゴルフ談義と華を咲かせていた。
城南信用金庫の吉原毅理事長とよしのゴルフの吉野冨壽郎社長が新会員に加わった。
2011年8月6日
今年は陰祭で7日のパレードはないが、向睦、根岸睦、宮本である八幡睦は午後7時から大森北のそれぞれの町会を猛暑の中、威勢よくがんばろう日本の旗を四方に付けた大御輿を担いだ。
大御輿を担ぐ若い衆からは汗が吹き飛んでいた。
夏祭り真っ盛りだ。
2011年8月4日
下目黒の菩提寺、大円寺で告別式を済ませ父は桐ケ谷斎場で荼毘に賦された。
瑞光院釈昭道居士霊位。
大円寺の先代の住職は目黒不動尊の貫首を兼ねていた。
若い頃、私の祖父と比叡山延暦寺でともに修行し得度したと聞いた。
父は毎朝、その大円寺と目黒不動尊へのお参りを日課としていた。
大黒天を祭る甲子には、父の49日の法要と納骨を済ませた後、私がお参りするこにしよう。
祖父から父へ、そして私が。
鈴木家は山形から目黒と移った。
私は縁あって大田区大森をふるさと決めた。
しかし、鈴木家のスピリッツとルーツは脈々と未来に繋がり守っていく。
それが父への私の誓いである。
2011年8月3日
通夜を終え、弟が親戚をホテルに送ってくれた。
私は実家に母や姉たちと帰り、遠路遙々お参りに来てくれた雄弁会の仲間にお礼を言おうと、いはらき新聞の論説委員として活躍する藤枝くんに携帯をすると、なんと皆、目黒駅近くの居酒屋で弔いをしてくれていたのだ。
私も駆けつけた。
多くの仲間が目黒の実家に、学生時代泊まったことがある。
父のその頃の四方山話を皆がしてくれ、終電でまで杯をあけた。
皆さん、本当にありがとう。
つらい時、楽しい時、私にはいつも雄弁会の仲間がいる。
私にとって永遠の同志である。
2011年8月2日
8月1日の都議会自民党総会で政務調査会長に就任した。
役員会で今後のスケジュールを協議し、本来なら知事室を訪ね石原知事はじめ副知事に挨拶に出向くのだが、夏風邪でこの日は公務をキャンセルした為、役員室に佐藤、村山副知事が挨拶にみえた。
その後、各党へ挨拶廻り。
都庁記者クラブで三役代理代行7人で記者会見。
次いで東京消防庁総監、警視庁総監を挨拶に訪ね、15時45分議会に戻った。
宮崎幹事長に父の葬儀の準備もあるだろうとお気遣い頂き、この日は帰らせていただいた。
私の父は昭和2年4月22日、目黒区下目黒に生まれた。
家業は大正時代、祖父が大鳥神社脇で始めた古書店の鳳書房である。
戦後疎開先であるふるさと山形県上山から戻り、目黒駅前の上大崎で鳳書房を再開。
戦地から帰った父も家業を手伝った。
平成1年、都道の拡幅で東急線学芸大学駅前に店を移し再開、平成12年で鳳書房を71歳で閉じた。
家業を継がなかった私は親不孝者である。
しかし、父は一度も家業を継げとは言わなかった。
私が日大雄弁会時代から政治家を目指していることを分かっていたのだろう。
父は、家業の傍ら品川の消防団の部長を務め、地域の防災活動にも力を入れた。
神田の東京都古書組合や南部古書組合の理事を務めた。
家族を大事にした父親だった。
私は店に立つ父の背中を何時も見て育った。
子煩悩な父は、色々な所へ、家業を祖父に任せ姉や私や弟を連れて行ってくれた。
春はハイキングや山登り。
夏は多摩川で水遊びや海水浴。
秋は上野の美術館。
実は自分が行きたい所へ付き合わされていたのかもしれない。
そんな父が大好きだった。
が、子供の頃はとても怖かった。
祖父の通夜ではしゃいだ私は、その当時、家の床の下にあった縁の下に押し込められ、その上に踏み台を載せ自分が腰掛け日が変わるまで説教された。
そんな父も私が大学に入ってからは大人として認めてくれた。
カメラと美術展覧会巡りが趣味だった。
休みはとにかく外に出かけるのが好きだった。
昨年10月、家で熱中症と脱水症状で倒れるまで毎朝、目黒不動尊と大円寺にお参り散歩するのが日課だった。
昨年の夏休み、母や姉と伊豆長岡に旅をした。
一緒に露天風呂に入り、背中を流した。
父の背中はふっくらして洗いやすかった。
父は、洗い流すと、ありがとうと言ってくれた。
その後うしろを向けと言い、今度は私の背中を流してくれた。
父の父としての父らしさを感じた最後の時、だったと今思う。
そんな父の葬儀を明日、目黒区下目黒の大円寺で執り行う。
寂しい。
つらい。
宮崎幹事長から29日昼、電話で都議会自民党の政調会長を頼むと電話を頂いた。
視察先の東大和から急遽新宿に戻り、打合せ中に、はなクリニックの主治医から電話があった。
直ぐにと。
午後6時。
駆けつけたが間に合わなかった。
父の身体は温かった。
とても穏やかな顔だった。
享年84歳。
父に報告した。
8月1日都議会自民党政務調査会長に就任します、と。
父は私に頑張れと言ってくれた。
私の心にはそう聞こえた。